会社を作った日から、経営者には「肩書き」がつきます。そして肩書きがつくと、こちらが望まなくても近寄ってくるものがあります。人を雇えば労務の問題が、売上が立てばお金の問題が、名前が知られれば人間関係の問題が、順番にやってきます。悪意のある人が寄ってくる、という話だけではありません。知らなかっただけで起きるトラブルのほうが、実際にはずっと多いのです。
本記事では動画の内容をもとに、経営者1年目に必ず通る3つの落とし穴──①労務、②お金、③人間関係──を順に整理し、それぞれについて「起きてからでは戻せないこと」と「今日から打てる手」をお伝えします。すでに何年も経営されている方にとっても、抜けている箇所の点検リストとして使える内容です。
1. トラブルは「労務」「お金」「人間関係」の3方向から来る
経営者が巻き込まれるトラブルは、驚くほどきれいに3つに分かれます。社員との間で起きること(労務)、お金の出入りをめぐって起きること(お金)、社外の人との関係で起きること(人間関係)です。順番にも傾向があります。多くの場合、最初に来るのは労務です。人を1人雇った瞬間に、労働基準法をはじめとする法律が会社に適用されるからです。
数字で見ても、労務は圧倒的です。厚生労働省が公表した令和7年度の個別労働紛争解決制度の施行状況によると、総合労働相談件数は119万8,010件で、18年連続で100万件を超えました。民事上の個別労働紛争の相談内容では「いじめ・嫌がらせ」が55,614件で14年連続の最多です。助言・指導の申出で最も多いのは「労働条件の引き下げ」(1,220件、前年度比10.6%増)、あっせんの申請で最も多いのは「解雇」(892件、同12.6%増)でした。
お金のほうも楽観できる状況ではありません。東京商工リサーチの集計では、2025年度(2025年4月〜2026年3月)の全国企業倒産は1万505件(前年度比3.5%増)。うち負債1億円未満が8,062件・構成比76.7%と、30年間で最も高い比率になりました。原因別では人手不足関連が442件(前年度比43.0%増)と急増しています。倒産しているのは特別な会社ではなく、小さな会社であり、人が採れずに回らなくなった会社です。
参考:厚生労働省「令和7年度個別労働紛争解決制度の施行状況」/東京商工リサーチ「2025年度(令和7年度)の全国企業倒産1万505件」
2. 労務──「1人目を雇った日」から会社は労働法の世界に入る
創業期の社長がいちばん誤解しているのが、ここです。社員が1人でも、労働基準法は適用されます。「うちはまだ小さいから」「みんな仲間だから」は、法律の世界では通用しません。まず押さえるべきは次の4点です。
(1) 労働条件は口約束ではなく「書面で」明示する
労働契約を結ぶときは、賃金・労働時間その他の労働条件を明示しなければなりません(労働基準法15条1項)。しかも明示すべき事項は2024年4月1日から追加されています。すべての労働者について「就業場所・業務の変更の範囲」、有期契約の労働者について「更新上限の有無と内容」、無期転換申込権が発生する契約更新のタイミングで「無期転換の申込機会」と「無期転換後の労働条件」を明示する必要があります。
ここを口約束で済ませると、辞めるときに必ず食い違います。「歩合を出すと言われた」「転勤はないと聞いていた」。書面が残っていない争いは、社長の記憶では勝てません。
参考:厚生労働省「2024年4月から労働条件明示のルールが変わります」
(2) 常時10人以上になったら就業規則は義務
常時10人以上の労働者を使用する使用者は、就業規則を作成し、労働基準監督署長に届け出なければなりません(労働基準法89条)。10人未満なら作成義務はありませんが、就業規則がない会社は「懲戒処分ができない会社」です。問題社員が出てきてから慌てて作っても、作る前の行為には原則として使えません。9人のうちに作っておくのが正解です。
(3) 残業代は「払っていないだけ」で必ず借金になる
時間外労働には2割5分以上、深夜労働には2割5分以上、休日労働には3割5分以上の割増賃金が必要です(労働基準法37条)。そして1か月60時間を超える時間外労働の割増率は5割以上で、中小企業への猶予も2023年4月1日で終了しました。中小企業だから25%のまま、ということはもうありません。
怖いのは時効です。賃金請求権の消滅時効は、当分の間3年とされています(労働基準法115条、附則143条3項)。1人あたり3年分がまとめて請求され、退職した労働者については年14.6%の遅延利息も加わります(賃金の支払の確保等に関する法律6条1項、同法施行令1条)。数人分がまとまって請求され、そこで資金繰りが折れる会社は珍しくありません。
参考:厚生労働省「月60時間を超える時間外労働の割増賃金率が引き上げられます」/e-Gov法令検索「労働基準法」(15条・37条・89条・115条)
(4) 「合わないから辞めてもらう」は、まずできない
解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合には無効です(労働契約法16条)。加えて、解雇するには少なくとも30日前の予告か、30日分以上の平均賃金の支払いが必要です(労働基準法20条)。能力不足を理由とする解雇は、指導・教育・配置転換を尽くした記録がなければ、ほぼ通りません。
一方で、社員が辞めるのは簡単です。期間の定めのない雇用なら、申入れから2週間で終了します(民法627条1項)。入れるのは慎重に、出すのは難しい。この非対称を前提に、採用の段階で見極めること、試用期間と評価基準を書面にしておくことが、後の紛争を減らします。
POINT:社会保険は「社長1人の会社」でも入る
法人は、従業員がいなくても健康保険・厚生年金保険の強制適用事業所です(健康保険法3条3項、厚生年金保険法6条1項)。人を1人でも雇えば労災保険も適用されます(労働者災害補償保険法3条1項)。未加入のまま何年も走ると、遡っての保険料徴収という形で必ず戻ってきます。
3. お金──会社の口座は社長の財布ではない
2つ目の落とし穴はお金です。ここでの最大の原則は1つ、会社のお金と社長個人のお金を混ぜないことです。中小企業では、社長個人のカードで会社の経費を切り、会社の口座から個人の支払いをする、という運用が当たり前のように起きます。しかしこれをやると、決算書には「役員貸付金」が積み上がります。金融機関は役員貸付金を、実質的な資産ではなく「社長に流れて戻ってこないお金」として見ます。融資審査で最初に指摘される項目のひとつです。
役員報酬の決め方にも独自のルールがあります。役員報酬を損金に算入するには、原則として毎月同額を支払う「定期同額給与」である必要があり、改定は事業年度開始の日から3か月を経過する日までに行うのが原則です(法人税法34条1項1号、同法施行令69条1項1号)。「儲かった月に多く取る」は、その分が損金にならず、法人税と所得税の両方で負担が増えます。
そして、何よりも先に守るべきは預かっているお金です。源泉所得税、社会保険料の本人負担分、消費税。これらは会社の利益ではなく、預かって納めるお金です。資金繰りが厳しくなると真っ先に手をつけたくなりますが、滞納すれば延滞税がかかり、売掛金や預金を差し押さえられます。差押えは取引先に知られ、信用は一瞬で失われます。ここに手をつけた時点で、会社は「立て直せる状態」から「畳む相談の状態」に移ります。
取引条件も1年目のうちに整えてください。2026年1月1日、下請法は中小受託取引適正化法(取適法)に改称・改正されて施行されました。発注側になる場合、支払期日は物品等を受領した日から起算して60日以内のできる限り短い期間内に定める必要があり、手形による支払いは一律に禁止されました。発注書面については、相手方の承諾がなくても電子メール等の電磁的方法によることができます。また、フリーランスに業務委託する場合は、フリーランス法(2024年11月1日施行)により、給付を受領した日から60日以内の支払いが義務づけられています。「支払いは翌々月末で」という昔ながらの慣行は、そのままでは違法になり得ます。
POINT:経営者保証は「当然」ではなくなっている
金融庁・中小企業庁の経営者保証改革プログラム(2022年12月公表)により、2023年4月以降、金融機関が経営者保証を求める場合には、なぜ保証が必要か、どうすれば保証を外せるかを個別・具体的に説明することが求められています。会社と個人の資産・経理を明確に分け、財務情報を適時に開示していることが、保証を外す前提条件です。財布を分けることは、そのまま社長個人の生活を守る話につながります。
参考:公正取引委員会「中小受託取引適正化法(取適法)関係」/中小企業庁「経営者保証」/e-Gov法令検索「法人税法」(34条)
4. 人間関係──肩書きがつくと、人が近寄ってくる
3つ目が、動画でも時間を割いてお話ししたところです。「社長」という肩書きは、それ自体が磁石です。紹介、交流会、SNS。会社を作った途端に人が増えます。その全部が悪い話ではありませんが、経営者1年目に起きやすい類型は決まっています。
- 共同経営の株式が50対50:仲が良いうちは問題になりません。しかし意見が割れた瞬間、何も決められない会社になります。株主総会の普通決議は議決権の過半数、定款変更などの特別決議は出席株主の議決権の3分の2以上が必要です(会社法309条)。誰が最終的に決めるのかを、最初に数字で決めておくこと。同時に、抜けるときのルール(株式の買取価格と手続)を株主間契約で書いておくことが、後の泥沼を防ぎます
- 「必ず儲かる」話:出資を募る、元本を保証する、高利回りを約束する。こうした勧誘は、金融商品取引業の登録(金融商品取引法29条)や出資法の規制に触れる可能性があります。紹介者が知人であることは、安全性の根拠になりません
- 名義を貸す:自社の商号を使用して事業を行うことを他人に許諾すると、その相手と取引をした人に対して、会社が連帯して弁済の責任を負うことがあります(会社法9条)。「名前を貸すだけ」は、他人の債務を引き受けるのと同じです
- 安易な連帯保証:個人が保証人となる根保証契約は、極度額を定めなければ効力を生じません(民法465条の2)。事業のために負担した貸金等債務を主たる債務とする保証契約を第三者が締結する場合には、原則として公正証書で保証意思を確認する手続が必要です(民法465条の6)。知人の会社の保証に軽い気持ちで押した判子が、自社を巻き込みます
取引先についても同じです。新しい会社ほど「仕事をくれる相手」を断りにくく、与信の確認を飛ばしがちです。最低限、登記情報で設立時期・役員・本店移転の履歴を確認し、契約書に暴力団排除条項と期限の利益喪失条項を入れてください。1年目に受けた1件の焦げ付きは、利益ではなく資本を削ります。
5. 経営者1年目の心構え──「知らなかった」は理由にならない
ここまでの話に共通しているのは、どれも事前に手を打てば小さな費用の話で、事後に対応すると会社の存続に関わる金額になるという点です。労働条件通知書を整えるのに大きな費用はかかりません。しかし未払残業代の集団請求になれば、3年分と遅延利息が乗ります。株主間契約を作るのに1か月はかかりませんが、共同経営者との訴訟は年単位です。
1年目の経営者に持っておいていただきたい習慣は、次の3つだけです。
- 約束は必ず文字にする:雇用も、取引も、共同経営も。メールで確認するだけでも、後の証拠として機能します
- 会社と自分の財布を分ける:口座もカードも領収書も。融資も保証も、この一点から評価が変わります
- 相談先を「困る前に」持つ:問題が起きてから探した専門家は、事情の説明から始まります。平時から自社を知っている人がいれば、初動が速くなります
経営者は、判断を人に代わってもらえない立場です。だからこそ、判断する前に相談できる相手を、先に用意しておくことが、いちばん効率のよいリスク管理になります。
まとめ
- トラブルは労務・お金・人間関係の3方向から来る。労働相談は令和7年度に119万8,010件で18年連続100万件超、2025年度の倒産は1万505件でその76.7%が負債1億円未満の小規模企業
- 労務は「1人目を雇った日」から始まる。労働条件の書面明示(2024年4月にルール変更)、10人になる前の就業規則、月60時間超50%の割増賃金と3年の時効、解雇の難しさを前提とした採用
- お金は財布を分けることがすべての起点。役員貸付金は融資審査で最初に見られ、定期同額給与を外すと損金にならず、預かり金(源泉・社保・消費税)に手をつけた時点で差押えの世界に入る
- 人間関係は「肩書きに寄ってくる」ことを前提に。50対50の株式、儲け話、名義貸し、安易な連帯保証──いずれも最初のルール作りで防げる
経営者1年目に起きることの多くは、すでに多くの経営者が同じ順番で通ってきた道です。先に知っていれば避けられるトラブルに、自分の時間と資金を使う必要はありません。就業規則や労働条件通知書の整備、契約書の型づくり、株主間の取り決め、取引先の与信の仕組み。これらは、走り出す前か、走り出した直後にしか、落ち着いて作れません。顧問弁護士がいれば、こうした「起きる前の作業」を、日常の相談の延長として進めていくことができます。
※本記事は一般的な情報提供を目的として作成したものであり、個別の事案については弁護士等の専門家にご相談ください。情報は2026年9月時点のものです。
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